10年ぶりのインド
素形材調査専門家 田 村 啓 治
今年久しぶりにインドを訪問した。
2000年ごろにJETROの裾野産業支援・指導のスキームで、4年間にわたりインド各地を毎回1~2ヶ月8回にわたって巡回指導を行った。行動範囲はカシミールから南部のタミールナドウ州に至るほとんど全土で、特にデカン高原を走り回ったのは楽しい思い出であった。
今回は短期間であったがデリー、チェンナイ、バンガロールの各市の素形材企業を訪問した。この10年間にインドはすっかり成長してその面目を一新していた。
ご承知のようにインドは国土約330万平方Km、東西、南北それぞれ約3,000Kmあるが、3つの高原を中心にその56%が耕作可能であり食料自給率の極めて高い国である。また人口は2008年時点で11億3,000万人でありこのままでは2050年には16億を超して世界一の人口国になるとみられている。特に若年層の厚いことは今後の労働力に期待でき、食糧自給率の高いこととともに将来の中国との競争が有利な状況にある。
タージマハル、ターバン、カースト、雑踏などに象徴されていたこの国も最近のIT産業と2次産業の発展でその様相がすっかり変わっている。
ニューデリーに入ってまず驚いたことは、町中で道路工事と建設が行われていることである。その活況は2000年初めごろの中国を彷彿とさせた。ニューデリーの中心のビジネス街は完全に南に移り工業団地はグルガオンからさらに西へと伸びている。
インフラ整備は急ピッチであり幹線の大動脈建設も進み、ニューデリーからアグラまで半日かかるところが2時間になるのも間もなくである。
アグラをはじめとする世界遺産は21件あり遺跡見物には事欠かない。小学生の修学旅行に紛れ込んで楽しんだこともある。
10年前はデカン高原を2000ccのディーゼルで走り回ったがなんとその名がSUMOであった。力強さの代名詞のSUMOであったが、それが今はタタナノに代表される自動車になっている。業界の発展スピードは著しく速い。
10年前は各州にまたがって動き回ったが、州が変わると言葉が全く通じない。標識も読めない。案内したインド人は英語、日本語、ヒンズー語に達者であったが全く通じなかった。ちなみにインドの紙幣には「これが100ルピーです」と14の言葉で書いてあるが、これを全部読める人には会ったことがない。インドはそのように多民族の国である。移動しているとき道路で道を聞くと適当に返事はしてくれるが当たったためしがない。人に聞かれて返事しないのは失礼という習慣があるからだそうである。もっと困るのが返事で首を振ることである。左右に小さく首を振るのでNOかとおもうとそれはYESである。初めは大変まごついたがそのうちこちらもYESとして左右に首をふり、日本に帰って困った思い出もある。
現地での大きな問題は食事である。インド料理には馴染めず日本からトランク一杯の食料を持参し、そば、うどんから漬物まで現地で作って食べたが、ホテルの朝食で日本から持参のハウスカレーを作って食べていたらボーイが驚いて集まって目を白黒させていた。インド人もびっくりか。
今回は日本レストランを探しまわった。さすがニューディーには何軒かあったが、その中に私と同じ「田村」という店があり、名前にひかれて通ったので助かった。チェンナイでは前回素晴らしいエビを食した記憶があったのでやっと探して行ったらなんとエビどころかお酒がなくさびしい限り。同行者に平謝りの次第。魚をパック詰めにしてインド各地の日本人に送るスーパーが本業のようになり、店は食事だけにしたようだった。チェンナイにはこのほか3軒の日本食があるが一つは中国系、一軒は韓国系で、昔馴染みのもう一軒は健在だった。インドではVATは12.5%だが店によってはさらに20%のVATをとるところがあった。国税と州税だろうか。
インドは美人の多い国で前回の訪問の頃はミスワールド、ミスユニバースが立て続けに出て目を楽しませてくれましたが、今回は結婚式にも出会わず、ホテルのフロントにも美人がいなくて残念だった。 インドは日本から遠い国だが日本への関心は高く、気持ちよく付き合える民族である。インドはこの10年ですっかり変わった。さらに次の10年は大きく変わるだろう。次の時代は中国とインドの時代になるといわれている。昔大東亜戦争の東京軍事裁判でパール判事が日本無罪論を主張したことを思い出した。インド人を理解して楽しみにして付き合いたいと思う。